前編
みんな、覚えてるよ。
それが"みんな"なのか、
それとも"みんな"なのか、
貴女は知らないけれども。
──それはとある昔の、昔のお話。
「どうやら九尾の狐が隣の村を壊滅させたらしい、明日は我が身、か……」
「恐ろしや恐ろしや、この村の法師さんは私らを守って下さるのかね……」
巷では「九尾の狐」という妖怪の噂が飛び交っていた。
なんでも、九尾の狐はという妖怪は村を破壊し一人残らず血肉を貪るという事で、この地域の村人を恐怖で震わせた。
九つの尾を持ち、鋭利な爪で切り裂き、強靭な脚力で捻り伏せる。それが九尾。
その桁外れの力に、絶望していた。抗うことも、なにも出来ないまま。その時を待つように。
そして、各村では寺の法師が九尾の狐を討伐しようと躍起になっていた。
そして狐に挑み返り討ちにされたと聞くと、討伐しようと挑む者は格段に減ってしまった。
……畏れを為したのだ。妖怪に。
「──九尾の狐、か」
村は活気が無くなり、冷たい風だけが通り過ぎ、
家から出る者は、畑を耕す者くらいで、
村は確実に寂れていったのだった。
九尾の狐によって。
──凄く、苛立たしい。
九尾の狐は地面を拳で殴り、爪で地を抉った。
何故だ、何故だ、と自身を問い詰めても、その苛立たしい原因が分からない。
そのなにものか分からない"怒り"に身を任せ、人間や村を破壊していく。
けれど、それでも満たされない思いがどことなく不自然で嫌らしく、まるで自分の作った蛹から出られない蝶のように苦しめる。
狐には記憶が無かった。
ある日、気付いた時には"そこにいた"
思い出そうとしても、何も思い出せず、微かに残る何者かの温もりだけが残されていた。
誰の、温もり?思い出せない。
言葉も、知識も、ある筈なのに、なぜか大きく空いた空白。
その虚無感が嫌で、自分がなんであるのかすら分からない衝動に陥ってしまう。
そのとき、耳を劈くような叫びを聞いた。
「九尾の狐!!お前のせいで家族は死んだんだ!!仇を……仇を討ってくれる……ッ!!!」
「五月蝿い」
まただ、また耳障りな奴が現れた。
黒の法衣に、手には御札。……見たところ、先日壊滅させた村の生き残りだろうか、
怒りを露にする限り妖怪と対峙したことがないのか、はたまた私と同じように怒りに身を任せているのか、
どちらにせよ、その殺気が私以外の妖怪を呼び寄せる原因になる。
この法師は気付いていない。
私を殺したい者は人間以外にもいるということを。
そしてそれは、毎分毎秒隙あらばその首をかっ切り、頂点に立とうと静かに私を狙っている。
つまり、先客がいるのに横入りする"雑魚"は私と戦う前に先客に殺されてしまうだろう。
「人間、そこを動くな」
「な、何を───」
それを合図に、
静かな殺気が、一瞬にして魑魅魍魎の怒りの殺気が放たれる。
それだけ、強靭な妖怪が九尾を殺そうと今か今かと狙っていたのだ。
笑わせてくれる。
九尾の住まうこの森が静まる。ざわざわ、と木々の揺らめく音しか、響かなかった。
それは九尾を恐れたのか、それともこれから起こる戦いを考えて"森自体"が妖怪を恐れたのか。
冷たい風が九尾と法師の間を翔る。
法師も漸くしてこの場の異様なオーラを感じたのか、辺りをキョロキョロし始める。
とにかく、九尾にとっては"いつも通り"だった。
私を狙いにきた妖怪が、我先にと狙ううちに自滅したり、人間や妖怪と戦う隙を狙い、普段仲間など作らない孤高の妖怪がグループを作って襲いかかるなど、日常茶飯事だ。
それこそ、そんな暇があるのなら自力で手柄を得ればいいのに、と思う。
短絡的で、人間以下の屑。自分が良ければ何やっても構わない。そんな妖怪が周りには大勢といる。強いて言えば私を狙う妖怪は全て自己中心的な性格の持ち主だった、そもそもそんな輩ぐらいしか私の目の前には現れない。
そんな妖怪の頂点に、私はいるのだから。
もしかしたら、屑以下の外道なのかもしれない。
「来い、妖怪共。腸を食い千切り、壮絶な痛みと死を貴様等屑共にお見舞いしよう」
その挑発に反応する輩は二通りいる。
己を力量を理解し、まだ死にたくないと気付く愚者。ある意味では賢い奴等だ。
だがそれとは裏腹に、そんな挑発にすら乗っかってくる馬鹿がいる、どこまでも短絡的で理解することを知らない屑が。
……丁度目の前の魑魅魍魎共もそうだ。まとめて襲いかかろうが、結局は殺され、学習しない生き物。哀れで仕方ない。
"一匹"の妖怪が動きだし、それに合わせて我先にへと醜い雄叫びを轟かせながら突撃してくる。
実に、滑稽。
傍らでうずくまる法師を一瞥し、そして眼前の妖怪を睨み付ける。
九尾は微かに笑う。
殺してる時だけは何も考えずに済むのだから。
そう考えたら、この妖怪共も無駄死にせずに済む。私の為に。
そういう意味では、奴等には感謝をすべきなのかも知れないが、
それが感謝の対象になるとはどう考えても、出来ない。
雄叫びで震え上がらせ、
金色の毛並みを輝かせ、
四股で地響きを引き起こし、
その九つの尾で全てを破壊してやろう。
私の存在意義は、
それしか無いのだから。
「……えっ?」
身を屈めて恐怖していた法師が、戸惑い、唖然とする。
そして意識が覚醒し、ふと辺りを見渡した。
どこにもいなかった。
あの忌まわしき妖怪共の影すら、
その異様に静かな妖気すら感じられなかった。いや感じるとするならば、背後にいる九……
「ひっ……」
法師が九尾に気付き、腰を抜かして尻餅をつく。
家族の仇、村を破壊した張本人、こいつさえいなければ平和なのに──。
……様々な思いが交錯し、困惑していく。今、私は助けられたのか?と。
もしかしたら九尾は良い妖怪なのかもしれない。法師はそう思った。
それはただ法師の良心から引き起こしたもの、極限の状態での判断は時としてその意識すらねじ曲げる。
「きゅ、九尾の狐よ……。お前は」
「五月蝿い。死にたいのか?」
一蹴。
その一言は法師の頭の中を恐怖で埋め尽くす。
もはや支離滅裂な頭の考えに、体はついてこない。
なんとかして、震える足で立ち上がり、何度も何度も転びながらも、九尾の元から離れていく。
結局、家族の仇よりも自身の恐怖に負けて逃げてしまう。
それが、悔しくて悔しくて。
けれどそれに抗う事が出来なくて。
「……畜生ッ、畜生……!!」
ただ、それしか言えなかった。
恐怖で前が見えなくなろうと、走った。足がはち切れそうになっても走った。
人間は思っている以上に、強くはないのだから。
あの妖怪が、追いかけてくるその前に、
逃げなくてはいけない。
それが至極一般的な答えの筈なのに、筈なのに。
何故かそれが間違っているような気がして、ならなかった。
九尾は何度も、何度も転けながら逃げていく若者を見ていた。
法師の姿が酷く苛立たしく、けどそれなのに、地平線から消え去るまで見届けていけないような気がしたからだ。
彼の姿を、どこかで見たことがあったような。いや違う。彼自身ではない、
あの必死さを、私はどこかで知った。そのどこかは分からないけども――。
気づけば、夜、だった。
空気が、止まっていた夜だった。
「あなたが噂に名高い九尾の狐かしら?」
不意に背後から、声がした。
九尾には背後をとられたという感覚はなく、ましてや妖気すら感じられなかった。
艶やかなその声は明らかに女性のものであった。
腐れきった妖怪共の声とは対照的なそれは、九尾が久々に耳にした人間のような声でもあり、
逆にそれが、九尾にとって警戒する理由となった。
「ああ、私が九尾だ」
振り返り、静かに応える。
その目の前には一人の女性。
九尾の毛並みのような金色の長い髪に、紫のドレス。
不思議、としか形容出来ない女性だった。
「人間風情が、私になんのようだ?」
「人間?…………。そうね、あなたから見れば人間かもしれないわね」
まるで馬鹿にしたような口調で九尾を煽る。
なんなんだこいつは、と訝しげに女性を見つめ、考える。
その台詞から察するに、彼女は人間では無いことが分かる。けども人間の姿をした妖怪なぞ見たことがない。
人間を格下に見てる彼等を何度も見ていたのだ、好き好んでそんな姿になるとは思えない。
人間の皮を被った妖怪?それが妥当か。いやだとしたら何の為に。
「今日は挨拶だけ、また会いましょう。九尾」
くすり、と笑う女性。
女性の手が弧を描いたかと思うと、一本の線が目の前に現れた。
そしてそれはやがて展開していき、真っ黒な闇が九尾と女性の間に出現する。
その闇は、どこか痛々しくそして見てるだけで何故か気分が悪くなった。
「さようなら」
女性の声がした後、目の前にあった黒い闇が一瞬にして、女性もろとも消えた。
その異様な光景に、九尾はただただ見ていることしか出来なかった。
妖怪というものからしても目の前の出来事はあまりにも唐突で、
闇のなかに消えるというイレギュラーな力に、九尾は女性がいなくなった後も、消えた虚空を見ていた。
噂は、常に変容する。
それは話し手と聞き手のイメージはイコールではないから。
聞き手の、聞いたときの印象、気分、そしてそれを聞いて何を感じたか。
それらの要素が混じりあい、噂は広まるほどその真実性は失われていく。
現に九尾の狐は数個程しか村を破壊していないし、弱い人間をわざわざ殺すことなんてしていなかった。
その事に気付いた妖怪が九尾という名を借りて、村を無くした人間を襲っている事を知ったのはつい先日の事だった。
今では、誰もが畏れ、誰もが殺したいと願う存在になっていた。いや、なってしまったと言うべきか。
けれども、一人だけ違う奴がいた。
金色の長い髪に、紫色のドレスを着た女性。
彼女は一体、何者なのか?
そんな疑問が、九尾の頭を悩ませる。
彼女はあの時、挨拶しに来たと言った。
ならば、また来るかもしれない。また会えるかもしれない。
待て、私は会ってどうするつもりだ?
ああそうだ、もしかしたら私はあの女性と関係があるのかもしれないと、
もしかしたら私の記憶を呼び覚ます鍵になるかもしれないから。
そんな淡い希望を、持ってしまったのかもしれない。
私らしくない。
野暮な考えを消して、
今日も妖怪共を殺していく。
それでも毎日、私を殺そうと襲いにかかる妖怪や人間が後を絶たない。
金色の毛並みも、返り血に染まり黒色に変容していた。……休む暇が無い。
休む暇があれば、逆に苛立ちで休むなど出来ないだろう。
休む事なんていらないぐらいの、体力は持ち合わせていたし気が緩めば殺されてしまうだろう。油断ならないことは分かっていた。
蒼天を見上げ、高々と咆哮する。
木に止まっていた鳥が羽ばたき、葉は散りながら彼方へ消え去っていく。
私は一体なんなんだろう、いつしか自分の存在意義を考えていた、それはあまりにも空が綺麗だったから。
……なんて言い訳をして、感傷に浸る。 ああ、一体私は何をしているんだろうか、と。
そしてその日は意外にも早く訪れた。
雨の日だった。
黒く染まった血は雨によって流されたし、適度な雨の強さは気持ち良いとさえ思えた。
そんな雨のなか、彼女は唐突に現れた。
薄紫色の傘をさして、前に会ったときと同じ衣装で、女性はやってきた。
前と同じようなカラクリを使って、気配すら感じないまま九尾の目の前に現れて、彼女はにぃと笑った。
それが純粋な笑みなのかそれとも邪悪な笑みなのか、九尾には分からなかった。
「久しぶりね、九尾の狐。あなたの名前はなんて言うのかしら」
「現れて早々質問か。私に名前なんてものは無いさ、九尾でもなんとでも呼ぶがいい」
「じゃあ九尾と呼ばせて貰うわ」
会話が始まった。
不思議で、奇っ怪で、
人間とは少しだけ違う風貌をした、女性との対話。
「名前なんかより、聞きたいことは無いのか」
「あら、名前ってのは大切よ。名前は人生を変える魔法の言葉、それくらい重要なのに存外に扱っちゃ駄目よ」
コホンと、女性が咳払い一つ。
「まあ"そんなことはいいわ"九尾、あなたに聞きたいことがあるの。
あなた、私と手合わせしてくれるなら本気でかかってくれるかしら?」
予想外の言葉だった。
そして彼女もまた、私の首を狩ろうとする輩だったのかと思い、拳に力が入る。
いや、期待していた自分が悪かったのかもしれない。
……残念だ。
多少他の妖怪と違うだけで、本質はどんな妖怪とも変わらない。頂点を目指す、ただそれだけ。
「いいだろう」
ただ一言、
その言葉を皮切りに、九尾が動く。
一言で例えるなら、嵐。
雨さえも吹き飛ばす瞬発力で、女性目掛けて襲いかかる。
間合いを一気に詰めて、相手の懐へと潜り込み、そして
「……!?」
その速さに、女性は驚いた顔をしていた。
だが、その女性の手は確実に九尾を狙っていた。
タイミングを合わせられていた。
懐へ飛び込み攻撃するのはいい、だが、
懐から攻撃を避けるのは難しい……!!
「早いわね」
「お前こそ」
そんな言葉が交わり、
避けるより、攻撃した方が良いと判断した九尾が拳を振るう。
常識外れな速さと力。
そしてその場に応じた判断力。
それが九尾の強さであり、頂点云われる所以だ。
単純かつストレート。なんの小細工も要らない、最強だった。
……それなのに。
「結界だと!?」
懐へ飛び込んで拳を振るうまで、たったの数秒だった筈なのに。
──結界が拳を捉え、がっちりと動けなくさせる。
迂濶、
まさにその一言だった。
「噂によらず、強いわね」
戦いは一瞬で終わった。
いや、もしかしたら戦いすら起きてなかったのかもしれない。
そんな呆気ない”一瞬”で全てが崩れ去ってしまった。
意識が暗転せしめようかとするとき、
微かに、彼女が嬉しそうな顔していたのは、気のせい、か。
ただ、あの黒い闇が自分の体を包み込んだとこまでは、微かに記憶していた。
「やっと会えた」
そして目の前が暗転した。
朧気に覚えていた微かな手掛かりだけが、
あなたと世界を結ぶ、鍵だから。
いつまでも、いつまでも、
変わらないのだと、
そう、思っていた。
けど、この螺旋階段は、
どうやら壊れてしまうみたい。
……残念だけど、仕方ないよね。
気付いた時には、雨はあがっていて、
柔らかな日射しが、二人を照らしていた。
──何故か、気分が良かった。
すると、後ろから女性の声がした。
「手合わせ、ありがとう」
「初めてだ。負けたのは」
悔しい筈なのに。
「だが、清々しい気分だ」
いつも沸き起こっていた、
あの苛立ちが、嘘みたいに。
「私、強い従者を探してるの。あなた、私の従者になってみない?」
──それは、大きな転機。
九尾にとって、それは、
単調な日々から抜け出せる、救いの手。
だから、そんな誘いにすがってみるのも悪くない気がした。
ああそうだ、こんな謎に満ちた胡散臭そうな女についていこうだなんて普通は思わないだろう。
……何故かは分からないけれど、この女性に付いていかないといけない気がしたから、
今を逃したら、もう二度と会えない気がしたから。
それもこれも、普段は抱かない気持ち。なんだかおかしい気分だ。
「あんたの従者になってやる」
「あなた様の従者にお仕えさせてください、でしょう?」
「…………あなた様の従者にお仕えしてやる」
「さ、せ、て、く、だ、さ、い」
「……お仕えさせてください」
「よろしい」
そんな、少し引っ掛かる言葉に戸惑いを感じながらも、九尾はこの女性の下につくことにしたのだった。
こんなにもあっさりと、まるで運命付けられていたように。
今までのがまるで幻想だったかのように。
「これからは私の事は敬語で呼ぶこと。私がやれといったらやること。あとそのでかい図体をどうにかすること」
淡々と、九尾に対して注文していく。
調子乗ってるなと思う九尾だが、如何せん自分より強いのだ。歯向かう余地がない。
「でかい図体は仕方ないだろう」
「…………」
ぎろり、と睨まれた。
「この姿は仕方ないじゃないですか」
「分かった、その姿に関しては私にいい考えがあるわ」
「ならわざわざ言わなくてもいいじゃないですか」
はあ、と呟く女性。
こんな小さな人間みたいなやつが、私より強いだなんて今でも信じられない。
「なあ、あんたの……。ああ、あなた様の名前はなんていうんだ?」
しどろもどろの言葉遣いを、華麗に無視しながら女性はあっさりと自身の名前を告げる。
「八雲 紫よ」
それは、聞き覚えのある名前だった。
けどその名前を聞いた時、何故か哀しく感じたのは何でだろうか。
今の九尾は、分からない。
八雲紫。
その名前を心の中で反芻する。
八雲紫、八雲紫、八雲紫……。それでも、何も思い出せなかった。
「んでその姿を何とかする方法なのだけど、あなた私の式にならない?」
紫が続ける。意気揚々と。
「私の力も少し貰えるし、"私の式"ということならヒトガタになれるし、一石二鳥だと思うのだけど……!」
「本音はどうなんですか?」
「家事を全てやってほしい」
「…………」
まあでも、悪い話ではなさそうだ。
家事がなんのことか分からないけども、八雲紫の力が少しでも貰えるなら越したことはない。
いつかきっとあんたを越えるために。
「で、どうするの?」
「紫様の式になる」
「うん、それでよろしい。んじゃ少し目を瞑りなさい」
紫の言われるがままになる。
目を瞑っている時間が、長く感じた。
そして意識はまた途切れた。
後編
……ここはどこだ。
周りを見渡す。
周りを見渡しても、白、白、白。真っ白な世界だった。
声を出しても響かない。壁がないのだろうか。
全てが同一色のせいか、平衡感覚が掴めず、足元がふらつく。
重力があるのに無重力の気分、といったらいいだろうか。形容しがたい状態のなか、自身の手を見てみた。
無い。
それどころか、体が無かった。
まるで存在だけが其処にあるような感覚。
何が起こったんだ。
まさか、八雲紫に騙された?
いやそれよりもここは何処だ?
様々な疑問が交差していた。
『安心するんだ、ここはお前の意識の中だ』
頭に直接呼び掛けられた。
何が何だか、分からない。
『戸惑うのは仕方ない。次が次なだけに、今回ばかりは特別よ』
"自分の声"が語りかけてくる。
おい、次ってなんだ。
特別って、なんだ……?
分からない。
分からない。
意味不明。
その瞬間、
九尾の頭に膨大な量の、映像が入ってきた。
寂れた神社の光景、
桜の花びらが散る長い階段の光景、
見たことがない、へんてこな服装をした人間と妖怪の光景、
そして、
『"次の私と幸せに暮らす方がいいに決まってる"』
『ありがとう、そして、ごめんね』
……そして、八雲紫の映像も。
なにもかも全てが直接入り込んでくる。
頭が割れるような痛みが九尾を襲う。
あああああああああああ!?
なんだ、いまのは……!!
絶叫。意識だけの世界なのに、その筈なのに、
壮絶な痛みが襲いかかった。
止めてくれ!!
……痛い、助けて、……くれ。
ああああああああ……。
九尾の記憶が甦っていく。
全ての記憶を。私が、私であった頃から。
最初の八雲紫と会った時から。
ああ、そうだ。
何一つ変わっちゃいなかった。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ
思い出した。
私の事も、八雲紫の事も。
有耶無耶だったものが、はっきりした。
『思い出した?』
思い出したよ。
『貴女は全部知った。けれど貴女は言ってはならない、皆のために。何より彼女のために』
分かった。
けど少し聞いていい?
『いいよ』
今の紫様は、
私が最後に会った紫様?
それとも……。
『それは自分がよく知っているんじゃないのかい?』
…………。
『貴女は最後まで見ていないから、分からないの』
最後?
『ええ、けどそれは最初でもある』
聞いたことがある。
紫様が言っていた。
けど、紫様は最後しか無いって。
『さあ、お別れね』
えっ。
待って、私は何をすればいい?
『君は何もしなくていい。いつも通りに。ただ出来ることなら、彼女を理解してあげて欲しい』
……分かった。
『それじゃ、さようなら』
さようなら。
ふう、と深呼吸をして。
私は眼前を見据える。
白の世界はやがて消えるだろう。
今の不可解な現象がなんなのか説明出来ないけど、
それでも、私の中のなにかが満たしてくれたのは、
私を取り戻したから、だろう。
さあ、戻ってきて。
こんなにも清々しい気分なんだから。
「これで晴れて私の式ね。どう?人間の姿も悪くないでしょ」
徐々に、頭が覚醒していく。
目蓋を開けると、自分の手が見えた。白くて透き通るような肌に、五本指の手。
その手で自身の顔をぺたぺたと触り始める。
そして見上げる。
何年も、何十年も、
それこそ気が遠くなるような歳月を共にしてきた主人が、そこにいた。
それが、嬉しくて嬉しくて。
「ちょっ、え、あっ?!」
紫に飛びかかって、抱き締める。
いつまでも、温もりを感じていたかった。
不意に、嬉しくて涙が溢れてきた。手と顎が震えて、ただ抱き締める事しか出来なくて、
「ゆ……かり…さまぁ……っ」
「ど、どうしたのよ」
「あり……がとう、ござい…ますっ……」
溢れかえる感情で、嗚咽が止まらない。
もし貴女が私を知らなくても、
私は貴女を知っている。
誰よりも幻想郷を愛し、
決して表舞台に立たなかった少女。
その心の内に秘めた想いは決して明かさず、全てを抱え込んだ博愛者。
私は貴女を尊敬していて、
私は貴女が好きだから。
また再会出来たことが嬉しくて。
またやり直せるんだと思って。
ただいま。
帰ってきました。
「な、何泣いてんのよ!そんなに嬉しかったの?」
「…………はいっ!!」
何度も、縦に頷いた。
「まあその……、家に帰るからついてきなさい。私の手となり足となるんだから覚悟するのよ」
「はい、紫様!」
「うーん、従順過ぎてなんだか怖いわ。式になるとこんなに性格が変わるもんなのかしら……」
紫が隙間を開けて、誘導する。
この黒い闇が怖かったのは、きっとあの最後の日の所為だろう。
私を追い詰めた無数の隙間、何が何なのか分からないまま隙間へ飲み込まれ、意識を失い、式を解かれていた私は元の九尾の妖獣へと戻った。
今までの記憶を消されて。
あれ?
それじゃあまるで……。
まるで、
輪廻の輪みたいじゃないか。
それが、何度も何度も繰り返されているのなら、
今回、私が記憶を取り戻す事は"特別"であって、今までの私は記憶が消されたまま上書きされていた……?
考えれば、考える度に、
何か知ってはいけないような事を、知ってしまいそうで。
それでも、考えてしまう。
この世界の秘密を、
そして、あの最後の日に紫様は何をしたのかを。
けれどあの時何をしたのか、知る術は無い。それはまだ起こっていないのだから。
今聞いたとしてもきっと紫には分からない。
全ては謎と共に、終わってしまったのだから。
「ここが私の家」
紫の隙間をくぐった先は、
あの懐かしいマヨヒガの家だった。
赤い鳥居を通りすぎ、その家を目に焼き付ける。そして同時に、本当に戻って来たんだと実感した。
これは、夢なんかじゃないと。
「んじゃ家周りの掃き掃除よろしく」
「はい、紫様」
紫が隙間を使って箒を取りだし、それを私に渡す。
「終わったら入ってきなさい」
紫がそう言うとすたすたと家に入っていった。
残されたのは一本の箒。
「まだ、会ったばかりですもんね」
よくよく考えればそうなのだ、紫と私を結んでいた絆は消えている。
そしてそれは、今新しく結ばれようとしているのだから。……記憶があるというのは良いことだけでは無いみたいだ。
早く、早くその溝を埋めたくて、焦ってしまう。
「…………」
分かってはいた。
時間が解決してくれるのも分かってる。
それでも、それよりも早く。
「私は、何をやってるんでしょうね……」
何年も、何十年も待っていたのに。
彼女を目の前にしたら、待つことが出来なくて。
解決法なんて無いのに。
首を横に何度も振って、考えていたことを忘れようとする。
幸せじゃないか、また彼女に会えたんだから。
そういえば、
彼女は強い従者を探しているようだった。そして身の回りの家事をさせようとしていた。
彼女が欲したのはその両方か、それとも……?
前はどうだった?
記憶が戻ったとしても、
気が遠くなるような歳月なのだ。……毎日の事を全て"覚えて"はいない。
塵を掃きながら、くすりと笑う。
「結局は、待つことしか出来ないんですよね」
狐と猫によろしく。
その言葉が頭の片隅に残っていて、
忘れたと思ったら、思い出してしまう。それが本当に片隅にあるせいか、紫自身気にも止めていなかった。
「…………」
大妖怪。
この座につくまで、何度妖怪と対峙したのか分からない。
それくらい戦っていたつもりだし、経験もあった。
九尾だってそうだ、強い妖怪と聞いてやってきたのだから。なのに。
……戦ってみたら、一瞬でカタがついた。
それなりの強い妖怪なら一日で戦いが終わるなんてざらにあるのに。
力、速さ、判断力、全て私にひけをとらないレベルだった。だけど、だけど。
「……手加減、されていた?」
いやそんな風には見えなかった。手加減とは違うような……、何かが働いたような気がする。
それを説明出来ないのは、ただ単に九尾が強くなかったということを信じたくないだけだから?
違う、違うけども……。
「……っ、分からない」
分からない、分からない。
何が?
上手く、言葉に出来ない。
分からない、という事にしたいんじゃないのか?
違う。
「……手加減、九尾、感情、不明、分からない、繋がっている、箒、扇子、秋は空が晴れている、金の髪……」
思い付いたワードを並べ立てる。
頭が勝手に排除しているかもしれない、もしかしたら分かっていても分からない無意識の削除があるかもしれない、
だからこそ、ワードを並べ立て再確認する。
「答を出して、意味がある問だったかしら」
自己解決。
そう自分に言い聞かせる。
諦める。
そうとも言うだろう。
分からない。
あの九尾と私が、何か関係があるような気がして。
けれどこの世界にそれを示す証拠が無いのだから。
だから彼女、八雲紫は繰り返す。
秋の夕暮れは綺麗だった。
雲一つ無い秋空は朱に染まり、八雲紫の家は黄金色に輝く。
九尾は目を細めて夕日をみやる。
ずっと見ていたら溶けてしまいそうな、そんな夕日だった。
掃除が終わり、紫の家にあがらせてもらう事にする。
「紫様、掃除が終わりました」
「ありがと。さ、上がって」
玄関から隙間を使って、ぬっと現れる紫。
その顔はさっきみたよりも幾分気の抜けたようだった。簡単に言えば友達を家に招く時のような、そんな表情。
「ああ、靴はちゃんと脱ぐのよ」
紫の後ろを着いていく。
長い廊下を歩き、居間へとたどり着いた。
その間、二人は別段話しはしなかった。九尾としては何も喋らない紫が少し怖かった。
何を考えているのか分からない。
お互いがお互いに、分からない。
それぞれの疑念とは少し違う、何かを感じながら。
「ねえ九尾」
「はい」
「もう一度聞くわ、私の式になる?」
「式になったんじゃ──」
「違う、未来永劫私の式になれるか聞いてるの。あなたにはその覚悟がある?」
真剣な眼差し。
私でさえその瞳に恐れを為してしまう。
でも、だからといって、
私の気持ちは揺るがない。
「ええ、あります」
だってその問いに何度も応えたから。
貴女に、仕えたかったから、
私はこれまで以上に貴女を慕っているのだから。
「嘘、嘘よ……。そんなの。あり得ない。あなた、本当にどうしたの……?」
「私は貴女に会って変わりったので。私は、私は貴女に仕えたい……!」
紫には全部伝わらなくても、
その断片さえ伝えればいい……。
こんなところで、
こんなところで。
物語は終わってはいけないのだから。
「九尾、貴女は何でそんなに私のこと──」
私だって分からないですよ、
けど貴女に仕えなきゃいけないような気がして──。
そんな台詞が、繰り返されていたのかもしれない。
でも、漸く理解出来た。
「私は……、きっとそういう役なんでしょうね」
「役?」
「紫様が主人公の物語です。私は貴女の従者っていう"設定"なのかもしれません」
そう、だから、
「……そういう運命なのかもしれませんね」
「運命、ねえ」
紫が笑う。
その動作に九尾がたじろぐ。
そして紫は九尾に背を向けて縁側へと歩き出す。
縁側からの庭の眺めは素晴らしいの一言だった。
深紅の紅葉が舞い、夕暮れ時の美しさを更に演出していた。
「これが運命なら、繋がってるのかもしれないわね。もしかしたら私と貴女には何か、あるのかもしれない」
紫の背中は、寂しそうで、小さくて、
まだ、主人も未熟なのだと思った。この背中を見て、私は生きていく。
「あったら、素敵ですね」
私も未熟だから、迷う。
そして、揺らぐ。
「ねえ九尾」
「はい」
「よろしくね」
「……はい!」
紫が振り向いて九尾の目を見る。
心の底まで見透かすような眼差しにたじろぎ、戸惑う。
「あなたが女性のひとがたになったってことは元が女狐てことかしら?なるほどなるほど」
「は、はあ……」
ああ観察されてたのかと思い、安堵して胸を撫で下ろす。
全くもってこの人の考えてることが分からない。
けどそれでもいい、それでもいいのだ。
「まさか男だと?」
「いやまあ、なんとなくそう思ったから」
「なんとなくでもつらいです」
「そもそも狐の性別の見分けなんて分からないわ」
「……う」
だって貴女はこの世に一人しかいないのだから。
「そうだ、私があなたの名前を命名してあげる」
ああ、やっと呼んでくれる。
私の名前を。
これから何年も何十年も、それこそ未来永劫、紫様に呼ばれるその名を。
「そうねぇ、私の名前が紫だし……」
名前はね、凄く大切なの。
自分の人生を決めるくらい大切なのだから。
「うん、決めたわ」
紫がコホンとわざとらしく咳払いして、九尾に向かって笑みを浮かべる。
柔らかな、笑みだった。
「心の準備はいい?」
「それはどういう……」
九尾の声を無視して紫が続ける。
「あなたの名前は……」
「藍。八雲 藍よ、宜しくね」
藍、藍、藍……。
自身の名前を心の中で復唱した。
紫から呼ばれた事が嬉しくて、
熱い何かが胸の奥から湧いてくるような感じがして、
「……はいっ!」
はにかんだ笑顔で主人に応える。
これから先、何があろうと崩れはしない思いを胸に。
貴女と共に、道を歩んでいく。
fin...
あとがき
お久しぶりです。
今回の話は藍と紫の話でした。
それほど長くはなく、文字通り短編話です。それでも書くべき事が書けてきました。
ある意味重要なファクターだったのではないかと。
■解説らしきもの。
とまあ今回は特筆するべき点は無かったりします。
三人称で書くようにはしてますが、後半部分は藍の視点から描いています。
藍の紫への想いが分かる場面ですね。
知る者と知らない者、手が届きそうで届かないもどかしさ、葛藤、等を心の隅で考えてたりします。
東方短編集はシリーズ(?)通して二次設定がかなり前面に出ています。
今までにご指摘が無かったのも不思議なくらい。
■今後
なんだかんだで、シリアス二本、バトルもの一本で休む暇もないので、
次らへんにまったり話が書けたらいいなーなんて思ってます。
それでは今回のあとがきに紫さん出すの忘れてましたが、次回のあとがきまでさようならということで。
それでは。
09/10/17 記
地下鉄の中で。
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