前編
大学から帰る途中、道に迷ってしまった。
「さて、どうしたもんかね」
正確な時間と位置を知ることが出来る私であったが、
生憎今日は雨である。傘の内側に広げられた小さな天体にはひたひたと雨漏りをしていた。
彼女、宇佐見蓮子はため息をして見たことがない地をさ迷い続ける。
「ぼろぼろの傘だとは思わなかったわ、何が超合成繊維よ」
傘と傘を作った会社に悪態をつきながら歩き続ける。
辺りは真っ暗で雨という日でもあり、人が通る気配が無かった。それでいて街路灯の灯りは消えており、尚一層蓮子を不安にさせた。
というか、こんなご時世に"こんなレトロ"な街路灯を見ることになるとは思いもよらなかった。
「ここら一体はまだ開発されていないのかしら。いやもしかしたらメリーが言ってた向こう側の世界?ううん、それはあり得なさそうね……」
ぶつぶつと呟きながら、蓮子は街路灯とアスファルトの地面の道をひたすら歩き続けていた。
そもそも大学で残って本を読んでいたのがダメだったのだ。
電車も夜遅くは走っておらず、蓮子は不本意にも歩いて帰宅しないといけなくなった。
一駅くらいの距離なのに徒歩では長く感じてしまうのは、最近運動していないせいなのか、身体の疲れが溜まっていく。
それどころかその疲れに並行して精神にも疲れが溜まっていく。
ぴちゃりぴちゃり、と水が跳ねて虚空へと消える。
現在の技術では天気を変えることも可能と聞いた。
人間は月を手に入れ、それどころか自然を手に入れようとしている。
そんな小難しいことを蓮子は考えるようになった。
もしかしたら苺について熱心に研究する教授に影響されたのかもしれない。いやそうであっては欲しく無いのだが。
この小難しいことと関連するのが、蓮子が秘封倶楽部と名を打ったオカルトサークルなのだ。
メンバーは蓮子と蓮子の親友であるマエリベリー・ハーンの計二名で成り立っている。
が、しかし。マエリベリー・ハーン、通称メリーが今日大学を休んだ所為か、こうして蓮子は一人で帰り……、いや迷う羽目になってしまった。
何れにせよ、一駅分の距離ならなんとか着くだろうと考えた楽観主義の蓮子は迷ったという焦りよりも、家に遅く着いてしまうことに苛立ちを感じていた。
秘封倶楽部は二人で秘封倶楽部なのだ。
メリーの為にも帰りにコンビニで適当にお菓子を買って渡そうか、いやこんな夜中だ。普通に眠りについてるのかもしれない。
或いは、"夢の世界"に行っているか。
「あれ、こんなところに」
そんな事を考えながら歩いていると見るからに異質なものが見えた。
アスファルトで塗装された道の脇に小さな石の階段が続いていたのだった。
本当に小さな入り口は周りの建物の陰に隠れていて、普通に歩いていては気付かないような階段だった。
「これは怪しい」
秘封倶楽部は普通のオカルトサークルではない。
不思議、魔法、と言った超常現象が噂される場所には足を運び調査してみるという、言うなれば実践派のサークルなのだ。
……勿論、自費で。
「少しだけ行ってみようかな」
そして蓮子は石階段にそっと足を踏み入れる。
境界とやらが視えるメリーがいれば、こんな怪しい場所ももっと注意深く視れるのだろうけど。夜中ということもあり視界が悪い。悪すぎる。
……おまけに雨が降るのだから厄介だ。
緩やかな、けど長い石階段を登り続ける。
大きな平たい石が道となっており、蓮子は遠くを見ても視界が悪くて何があるのか分からなかった。
雨の所為で靴はびしょびしょ。夜の寒気がそのままダイレクトに蓮子の足を刺す。
帰ったら風呂入ろ、なんて事を思ったら白い吐息を零れた。
いけない、ため息をついたら幸せが消えてしまう。
ぴちゃりぴちゃり、と石の上の水溜まりが跳ねる。
そして幾ばくか歩いた後、ついに蓮子の視界が晴れた。
「…………へぇ」
気付けば雨は止んでいた。
それどころか月が顔を覗かせて、綺麗な星空が見えていた。
本当ならば星空が見えるという事が、今のこの世界では滅多にないことなのだが、それよりも蓮子の視線の矛先は目の前にあった。
それは紛れもない神社だった。
いや、神社であった。と云うべきか。
貴重な木材が使われたその建物は所々朽ち果てており、神社へ向かう石畳は割れていて、それはそれは凄惨なものだった。
蓮子は傘を畳んで、もう一度前方を見やる。
時代から取り残された残骸が、目の前にあった。
──メリーがいれば良かったのに。
蓮子は一人で調べるのは止めておこう。と考えた。
というのも、こんなミステリアスで怪しいところは、一人で散策すべきではないと私の第六感が警鐘を鳴らしている。
……というか本音を言えばこんな真夜中にこんな怪しげな場所を調べるなんて正直怖い。神隠しとか心霊現象とか起きそうだ。
それにお風呂に入りたい。暖かい布団に入りたい。
先程までの探求心と冒険心よりも早く帰りたいという気持ちが強かった。
それにメリーがいない今、私が調べてもまた二人でここに来ることになる。
と、なれば私が下調べしても意味が無いわけで。
「っても、そのまま帰るのもなんだか釈然としないし……」
石畳の向こうに鎮座する賽銭箱に向かう。
木と木を固定する金具が錆びていて、心なしか傾いているように見えるそれに、蓮子は財布から取り出した小銭を投げ入れる。
「メリーが大学に来ますように。メリーが社会復帰しますように。メリーが……」
たった数十円の金で色んなお願い事をするのはどうなのかと思われるが、蓮子はそんな事も気にせず願い事を述べる。
「後は……、そうだ。メリーと離ればなれになりませんように。メリーが幸せになりますように。」
ぱんぱん、と二拍手して鐘を鳴らす。
そして蓮子は満足したのか、くすりと笑って神社を後にする。
「そういえば」
神社から出る間際に、あることに気付く。
「賽銭を入れた時に音がしなかったような……? ま、いっか」
そして蓮子は軽い足取りで来た道を戻っていった。
とある三月の、雨の日の事だった。
◆ ◆ ◆
次の日。メリーは大学に来なかった。
大学に入ってから成績が芳しくない私は少しでも点数あげようとしてるのだが、目の前で苺について語っている教授を見ていると、点数あげなくても生きていけるしなぁなんて思ってしまう。
苺教授にとっては生徒の点数よりも研究の方に熱心なのは周知の事実なのだが、しっかし、本当に苺について毎日120分も語るのだから凄い。変人にしか見えない。
そんな私も、周りから変人とも言われるような事をやってるのだから、目の前で語る教授の印象こそが、私の印象なのかもしれないと思って、ひどく落ち込んだ。
まあ、教授の顔は活き活きしてたし、本人は幸せなんだろうな、って分かるんだけど。
そんな苺教授の人間観察をしながら蓮子は映像の字を頭に入れていく。
世の中、全てがデジタルになってしまった。電車から見える風景も、空も、何もかも。
ひょっとしたら目の前にいる苺教授もホログラムかもしれない。
全てが人工物で溢れた世界。
その中に私がいる。
そんな事を思うと、これじゃあまるでこの世界が他の世界から傍観されてるような、そんな錯覚をする。
メリーが視る境界の向こう側の世界というものは、どうやらこの世界とは全然違うものらしい。
全てが天然モノ。人の手が加わっていない自然のものらしい。
筍を持って帰りたかったなぁ、とメリーは悔しがっていた。
その向こう側の世界というものは、メリーが言うには夢を見た時に行けるらしい。
だったら、その世界はただの夢なんじゃないかと訊いたが、夢という割には内容が鮮明で頬をつねったら痛かったと言っていた。
半信半疑ではあったが、幽体離脱なんてものがあるのだから否定は出来なかった。
メリーは境界を視ることが出来るらしい。
らしい、というのは私が境界を視ることが出来ないからで、在るかどうかなど確認のしようが無かった。
彼女はその境界を視ることが出来るのだが、その境界は何の為にあるのか、分からないでいた。
彼女しか感知出来ない境界は、私達秘封倶楽部にとって、オカルトっぽいよね、っていう陳腐な理由によって解決しなければならない問題であった。
蓮子はノートに一本の線を引く。
私達が認識出来る境界はどこにでもある。例えば今書いたような一本の線によって境界が引かれたことになる。その境界によってノートの1ページが半分ずつとなり、別世界が作られる。
境界はどこにでも存在する。
こじつけという意識で、境界は無限に広がっていく。
メリーにこのことを言ったらピンと来ないと言われた。
境界を視る、だけではなく扱うことが出来れば、それは使い方次第では恐ろしい力になるのではないかと説いたが、メリーは首を横に振るばかりだった。
そんなこと、無理よ。
逆に蓮子の力が成長したらとんでもないことになるんじゃない?と返された。
そんな夢物語を話し合ったのは……、いつだっただろうか。今では思い出せなかった。
そして蓮子は一本の線を消そうとしたが、力強く書いた所為か線の後がうっすらと残ってしまった。
うっすらと残った消し跡をぼんやりと眺め、そしてまた苺教授の人間観察を始めた。
◆ ◆ ◆
次の日も、メリーは大学に来なかった。
流行りの風邪でも引いたのだろうか、ここ数日顔を合わせていない。
流石に不安になったので蓮子はメリーが住む寮に赴くことにした。
ついでに、コンビニエンスストアでケーキを購入。今のうちにメリーに借りを作った分を埋めておこうという魂胆だ。
肌寒い日が続くが、暦的には春なのだ。黄金色に染まる夕日を見て、日が長くなったなぁ、なんて思った。
片手にはケーキの入ったビニール袋を携えながら、アスファルトの小坂を歩く。
メリーの家に行くために、蓮子の歩調は自然と速くなる。
「あれ、蓮子?」
蓮子が後ろの声に反応して振り返る。
「あ」
そこには買い物袋を提げたメリーがいた。
「久しぶりね」
「久しぶり……、って何でメリーがここにいる訳?」
「家の食料が尽きたから買い物しに」
「…………」
どうやらメリーは風邪を引いていたらしい。
んで、体調が良くなったから今日、近所のスーパーに買い物に行こうとしたのだという。
「お見舞いに来てくれるなら蓮子に買い出ししてもらえば良かったわ」
「心配して損した……」
しかしメリーは一週間ほど休んでいたのだ。
かなりの熱があったのだろう、普通じゃ食料なんて尽きないし、彼女は無計画で突っ走るような性格ではないのだから、食事もちゃんと考えて摂っていたのだろう。
今日くらいは彼女のわがままを聞いてやってもいいかもしれない。
「んじゃ、はい」
差し出されるは、大きなスーパーの袋。二つ。
「ほら私、病み上がりだし」
前言撤回。
いやこの場合は前思撤回と云うべきか。
まあでも、唯一無二の親友の頼みなら仕方ない。うん、そうだ、仕方ない。
「仕方ないなぁ。今日だけよ」
一週間ぶりの彼女に、あー、そういやメリーってこんな感じだったなぁなんて思いを抱いて、
蓮子はスーパーの袋を受け取って、思わず、笑ってしまった。
「一週間って長いものね、メリーがいないと秘封倶楽部じゃないね」
「秘封倶楽部、なんだか久しぶりに聞いたわ。その名前」
「一週間は久しぶりの範囲なのね」
アスファルトの道は夕陽の所為で茜色に染まっていた。
まるでレッドカーペッドのようで、その上を歩く私達は気分を弾ませながら、話始める。
「ねえ、蓮子」
ん、とメリーを見やる。
そこには何か悪戯を考えているような、けどそれを隠しているような、そんな形容しがたい───。まあつまりは、胡散臭そうな顔をしてメリーは蓮子に訊いた。
「夢と現、蓮子あなたなら、どちらを現実として選択する?」
その問いは、ひどく抽象的で、曖昧で、そんなことを考えてもみなかった蓮子は頭を傾げて考える。
というか現は現実なんじゃないかと思う訳だけども、そんな解答を彼女が求めていないことは百も承知だ。
「そうねぇ……」
メリーが言う、夢とは何なのか。
きっと、将来の夢とかそういったものではない、人が寝るときに見る夢なのだろう。
ただそれが現実の事象だと考えるのはなかなか難しい。
毎回、夢は形を変えるのだから。
時にはただの少女Aだったり、王冠を被ったお姫様だったり、それこそ人間を俯瞰する存在となったり。夢は曖昧で、夢の世界は寿命が短い。
けれど、それが無ければどうだろう?
それが現実になれば、お姫様になれたり……それこそ俯瞰する存在にもなれるかもしれない。
その時、秘封倶楽部の蓮子と違う役を全うする蓮子、どちらが良いのか、とメリーはそう聞いているのかもしれない。
「私は……」
しかし私は大前提として考えていることがある。
「メリーがいる方が現実だわ」
秘封倶楽部は、二人で秘封倶楽部なのだから。
「これが、この世界が、夢だったら貴女はそれでも此処に留まるの?」
そんな彼女の問いに、
「まあデメリットが無いならいいんじゃない」
そう、あっさりと答える蓮子。
きっと彼女は、世界の半分をくれてやろうと言われても、今のようにあっさりと答を下すのだろう。
そんな答えが聞けて、嬉しかった。
けど、もし私がいなくなったら蓮子は───。
「そうだ、この袋に入ってるプリンが食べたいな」
メリーは、はっとして隣にいる蓮子を見る。
私は、何を考えているのだろうか。
いつか、離れてしまうような、そんな気がした。
「どうぞ、それ三つセットのだから。一つくらいいいわよ」
「やったー!メリー早く帰ろー!」
「はいはい」
◆ ◆ ◆
「うっ……」
二度寝をした。
蓮子はまだ覚醒していない頭に鞭を打って辺りを見渡し、窓から見える風景に絶句し、そして時計を見つけて冷や汗をかいた。
空は青空から紅空へと変わり、鳥の囀りは烏の鳴き声に変わってしまった。
急激な変化に戸惑って、二度寝をした後悔がじわじわと襲ってくる。
そういえばメリーに、「長時間の睡眠は体に毒よ」なんて言われていたような気がする。
ってあれ、そういやメリーがいない。
名前を呼んでみたが声は返ってこなくて、幾ばくかの虚しさを感じるだけだった。
ふとテーブルを見ると、昨日どんちゃん騒ぎした残骸であるビール缶やプリンのカップ等が片付けられていた。
代わりに一枚、白い紙が置かれていた。きっとメリーが書き置きでもしたのだろうと思い、手にとったら案の定メリーの書き置きだった。
大学に行ってきます。
起きたら掃除してなさい。
二行目が何度も消した後が見えた。
よくよく見ると、買い物に行ってこいとか色んな事が書かれていたようだ。
でも結局、掃除の仕事を任せたという事は、それだけ買い物とかには向いて無いということかもしれない。
「頼りないのかしら、うーん」
マイナス思考にスイッチが入った蓮子は、ベッドに腰掛けて溜め息をする。
なんだかだるい。非常にだるい。
ぼーっとしといたら、お腹が鳴って、そういや朝と昼にご飯を食べていないことに気付き、急に晩御飯が恋しくなった。
メリー、ちゃんと私の分の晩御飯も買ってきてくれるかしら、と不安に思い、そしてまた、ぼーっと窓の外の風景を眺める。
「なーんか、言い忘れてる事がある気がするんだけどなぁ……」
それもひどく重要な何かを。
覚醒しきっていない頭を総動員して思い出そうとしても、何も思い出せなかった。
メリーの家は1Kで、一人暮らしにはぴったりの家だった。
とあるアパートの一角に位置するここは、陽当たり良好で、眺めも悪くない。
メリー自身、しっかりした所(どこか抜けているような気はするけど)があるため、キッチンやら本棚まで綺麗に整理整頓されている。
ただ、秘封倶楽部で遠出するせいか、旅費がとんでもないことになっている。
その為か、メリーの家にはあまり家具は置かれておらず、入居特典のベッドとテーブル、そしてメリーと蓮子の二人でお金を出し合って購入した本棚しか無かった。
ちなみに蓮子は本棚の本を読んだことが無かった。
大抵のものは大学の図書館で読めるせいか、不思議とメリーの家にある本は、家具と同等にしか見ていなかった。
そんな本棚を、ぼーっと眺めて、
「三度寝でもしよ」
蓮子はまたベッドに身を委ねる。
……今度はあまり寝付けなかった。
◆ ◆ ◆
三度目の目覚めは、二度目よりも気分の悪い目覚めだった。
「蓮子、起きなさいよ」
私のパートナー。マエリベリー・ハーンが買い物袋片手に見下ろしていた。
睡眠が浅い割にはしっかり三度寝をしていた蓮子だが、二度寝よりも、より一層の疲労感と倦怠感が襲いかかってきた。
「一日中寝てた……」
「寝過ぎよ、寿命縮むわよ」
「うう……」
寝惚け眼の蓮子をみて溜め息をつき、どさりと買い物袋を置いて、その中から今晩の弁当を並べていった。
「サンドイッチは飽きたからおにぎりで」
「買い物お疲れ様です」
メリーに敬礼して、適当に目に止まったものを戴く。
「今日何も食べて無かったからお腹が減ったわ」
「あれ、蓮子の為にサンドイッチ作った筈なんだけど」
「そんなの無かったよ」
「じゃあ間違って昼食分のサンドイッチ、蓮子の分も持っていっちゃったかも……」
がくり、とうなだれて、蓮子はコンビニエンスストアで買ってきたおにぎりを頬張る。
「美味しい」
「そりゃあ、お腹減ってるんだから」
◆ ◆ ◆
かくして、疲れたということでメリーはすぐにベッドに入って寝てしまった。
ここ数日、外にあまり出なかった彼女にとって、久しぶりの大学は慣れてないのかもしれない。
そんな相棒の寝顔を、ぼーっと眺めていた。
落書きしてやろうか、と思ったが、泊めてもらっている身分だし、それにメリーが寝てるのに家に帰るのもなんだか癪だ。……というかメリーの家の鍵を持っていないというのもあり、蓮子は帰る気が無かった。
そういった事もあってか、今日もメリーの家に泊まろうと思った訳なのだが、如何せん、一日中寝ていた蓮子にとって、寝るということが非常に難しかった。脳が覚醒したせいか、眠いという感覚は一切感じず、ただひたすら、メリーのいない退屈な時間を余儀なくされた。
「…………」
ベッドの脇に敷いた布団に突っ伏して、何か、暇を潰すことは出来ないか、と考える。
勉強は……、いいや。
ゲームは……、持っていない。
天体観測は……、外は寒い。
「あれ」
ふと、視界に映った本棚に目を留める。
そういやここにある本を読んだことが無いんだっけ、と思い、興味が沸いた蓮子は本棚から適当に一冊選んで読むことにした。
昔から、蓮子は読書が好きな方だった。
暇なときは図書館に出向いて本を読むこともよくあった。
読めば、読んだ分だけ、色んな知識を手に入れられるし、何より、読んだ後に賢くなったんじゃないかと思うからだ。
自身の眼が特異な事もあってか、興味の矛先がオカルトに向けられたのはそう遅くなかった。
蓮子は『多世界解釈』と書かれた本のページをめくる。
タイトルの文字は明朝体で、それ以外に無駄な装飾が為されておらず、テキストと白い空白だけが存在していた。ぽつりとあるそれは、より一層、"それらしさ"を出していた。
そしてこれは、メリーの所有物なのである。その事実が、もしかしたらホンモノの本かもしれない、と期待に胸を踊らせ、蓮子はその本の世界へ入り込む。
多世界解釈、私達が住まうこの世界とは別の世界があるという考え。
それがもしメリーの云う、夢であったとしたら。
そんな繋がりを感じずにはいられなかった。
◆ ◆ ◆
次の日の朝、メリーはカーテンの隙間から溢れる陽の光によって起こされた。
むくり、と上半身を起こして、大きな欠伸を一つ。
「…………」
永い夢を見た。
けど何の夢だったのか、忘れてしまった。
人の見る夢は、儚いのだと誰かが言っていたが、まさにその通りかもしれない。
手のひらから溢れ落ちるかのように、あっという間に、消えてしまう。
それが、なんだか可哀想で、そして悲しくて、
けれど、そんな思いも数分後には忘れてしまうのだろうと思うと、こんなことを考えても仕方ないことなのだと思った。
それから、メリーは深呼吸をして、カーテンを思いっきり開ける。
この晴れ具合じゃ、じきに蓮子も起きるだろう。
◆ ◆ ◆
「……うっ」
蓮子は強烈な日射しによって起こされた。
目が開けなくても分かる。
目蓋を閉じた状態なのに、視界は白。きっと、直射日光の所為だろう。凄く眩しい。
「……ん」
右手で目を覆って日光を遮断する。
布団が暖かくて気持ちがいい、まだ起きたくない、誰だカーテンをあけたのは……
「起きなさい、蓮子」
「……」
ああ、ここはメリーの家だった。ど忘れしていた。
メリーの声は平静で、まるで母のような温もりがあった。これなら尚更寝るしかないだろう。
「狸寝入りだってのは分かってるわよ」
「……」
ここで反応してはいけない。
反応すればたちまち布団を剥がされ、私のエデンが失楽園となってしまう。
「また一日中寝てるつもり?」
「…………」
狸寝入りと分かってるのか分からないが、そんな心理作戦は私には効かない。多分。
「狸寝入りしてる時、あなたニヤニヤしてるんだもの」
「えっ」
なんだそれは、と思って思わず言葉にしてしまった。
その時に僅かに目蓋を開けてしまった。
蓮子は見た。その僅かな時間の中で、メリーが邪悪な笑みを浮かべているのを。
「…………」
「…………」
さっきの間の抜けた声が聴こえてはいない筈だ。
……多分。
「そっちがその気なら、私だって考えがあるわ」
「…………」
考えって?
そう思った矢先、私のエデンは崩壊した。
ばさり、と熱がこもった布団が一瞬にして蓮子の体が離れ、中空を舞う。
一瞬にして蓮子の体は布団という鎧が剥がされた所為で、冷気を纏い、そして
「まだまだーっ!」
ぴしゃり、と
窓を開け放った。
まだ冷たい春の風が、蓮子の体を突き刺し、その寒さ故に、目を覚ませざる得なかった。
「おはよう、蓮子」
そしてまた、秘封倶楽部の一日が始まる。
後編
何かが少し、ずれている。
◆ ◆ ◆
いつものように、蓮子とメリーの二人は大学へと足を運び、苺が好きな教授── 通称、苺教授の講義を聞いていた。
苺教授は生徒達と同年代で、そしてまたその年で研究者となった天才でもあり、そして彼女は変わり者でもあった。
「魔法って、存在すると思う?」
魔法、というワードに、講堂に集まった生徒達は苦笑した。
他の教授などは、場を和やかにするためによく突拍子の無いことなどを言うが、彼女は至って真面目に問いかけた。
秘封倶楽部の二人は、彼女が何か知っているとみて、講義に聞きに行くことにしたのだが、どうにもこうにも話を聞く機会を掴めずにいた。
「魔法、かぁ……」
そう呟く蓮子はペンをくるくると回して、「あっ」と閃いたかのように、メリーに自分の目を指差して訊いた。
「この目には魔法が掛かってたりして」
「魔法とは何か違うベクトルのものだと思うけど……、確かにそうかもしれないわね」
「けど、不思議な力って事は分かるわ。でもそれは魔法というよりは生まれついた能力、オカルトっぽく言うなら超能力と捉えた方が良いと思うわ」
「メリーの眼も?」
「少なくとも私はそう考えるかな」
先程の話が終わったのか、苺教授は比較物理学についてつらつらと話始めた。
あちゃー、さっきの話を聞いておけば良かったかなと思った蓮子だがメリーに「すぐ終わったわよ」と言われ、納得する。
そもそも、そんな話は相手にされないのだから。
魔法は科学となり、魔力なんてエネルギーは無いのだから。
けど、蓮子とメリーはそんな得体の知れない力が存在していることを知っている。
それを魔法と結びつけるかどうかは分からないけども、目の前にいる苺教授が求めようとする何かの延長線上に、私達が求める──そう、答えみたいなものが存在するのかもしれない。
「何で教授は魔法について生徒に訊いたんですか?」
講義が終わってすぐに、蓮子は苺教授の元へと駆け寄って質問した。
メリーが慌ててついてきたが気にしない。
「だって、素敵じゃない」
にこやかに笑みを浮かべて、苺教授は答えた。
その単純な回答に、蓮子は目を見開いた。在るか、無いかの話なのに、それを彼女は確かめようとしているのだ。
魔法なんて無いのだと、通説のように語られて、何世紀も経っているというのに。そんな幻想を追い求めようとしている。
「ま、私を追い出した学会への復讐もあるのだけどね」
そういえば訊いたことがある。
目の前にいる苺教授は、魔力の存在について発表し、そして馬鹿にされたという。
五世紀も先をいく科学力をもった天才。深紅のボレロとスカートで紅に染まった彼女。
──岡崎夢美は、くすりと笑う。
自分を嘲笑った学会へ、
そして、変わり果てたこの世界へ。
◆ ◆ ◆
それから次の日。
岡崎夢美は生徒達に問い掛けた。
「魔法が使えたら何がしたい?」
生徒達は口々に色んな事を言い合った。それは秘封倶楽部の二人も同じで、
「とりあえず瞬間移動は欠かせないわね」
「んー、私は空を飛んでみたいなぁ」
なんて事を話し合った。
瞬間移動が出来れば旅費が掛からないじゃないと言うメリーに対して、蓮子は経過が大事なのよ、経過が、と言っていた。
「まあ、旅自体が楽しいってのもあるんだけどね」
「確かに」
気付くと比較物理学の講義に戻っていた。
蓮子はそんな苺教授の姿を芒と見つめ、昨日のやりとりを思い出す。
少ないやりとりではあったが、けれど、彼女の意志が垣間見れたような気がする。
なんとしてでも証明する。そんな意思が。
もしかしたら、もうそれは実現しようとしてるのかもしれない。彼女ならやり遂げてしまいそうな、そんな気がした。
「教授に付いていくの?」
「まさか」
私の心の内を察したかのように、メリーは問い掛ける。
「私達は、私達のやり方で行かなきゃ意味がないじゃない」
「蓮子なら言うと思った」
メリーが笑みを浮かべた。
そう言ってくれて嬉しいというニュアンスが込められてる、そんな気がした。
蓮子は恥ずかしげに頭を掻いて、「あっ、そういえば」と呟く。
「メリーに教えようと思ってたんだけど、何だっけ……」
そう、私は何かをメリーに教えようとしていたのだった。
昨日、今日じゃない、数日前に、メリーに何かを教えようとして、そして会う前に忘れてしまったのだろう。
教えなくちゃ、という朧気な記憶が、蓮子自身に、得体の知れない何かを感じて嫌悪感を抱き、更に記憶が薄れていきそうな錯覚に陥る。
「うーん、大したことの無いことだったかも」
「思い出したら言ってね、気になるから」
ノートに、メリーの家に行く前に何か伝えようとしていた。と書いて、その字を丸で囲む。
「あっ、もしかして」
閃いたと言わんばかりに、蓮子はメリーにびっ!と指を指して、
「プリンのお使いを頼もうとしてたのかも!」
「あなたは病人にお使いを頼もうとしていたのかしら」
そして一蹴された。
「そうだ、プリンといえば。蓮子、あなたもしかして最後の一個食べた?」
「…………」
「目を逸らさないでよ」
「…………」
「黙秘権なんてないわよ」
「うっ……。ごめんなさい、プリンが食べてって言うものだから」
「プリンが喋るわけ無いじゃない」
メリーに両手を合わせて慈悲を乞う。ため息をついて額に手をあてる姿が容易に想像出来た。しかしまあ、仕方なかったのだ。あまりにも美味しそうに見えたのだから、それこそ魔法みたいに、食べたいという欲求が……。
「欲求を少し抑えて、自分でプリンを買えばよかったじゃない」
「メリーのプリンが美味しそうに見えたの!」
苦笑。
そして二度目のため息。
やれやれ、といった具合にメリーは「今度何か奢りなさいよ」と言って、講義を聞き始めた。
「おおお!それでこそ私のパートナー!ありが──」
「うるさい」
「……はい」
そんな彼女をみて、蓮子もまた講義に集中する。
講堂は教授の大きな声と生徒達の声で、少しだけ騒がしかった。
結局、彼女達二人が集中出来たのは、僅か五分程度だった。
そして比較物理学の講義を終えて、蓮子とメリーが談笑しているなか、ふと後ろから声をかけられた。
「こんにちは」
おもむろに振り返ったら苺教授がいた。
驚いたのは私だけではないようだ。メリーもまた、目を丸く開いていた。
「貴女達、秘封倶楽部よね?」
苺教授の助手が一人、一昔前の海兵服を着ていて、金髪のツインテールの少女が苺教授の斜め後ろに堂々と立っていた。
「……ええ、そうですが」
その蓮子の答に、苺教授は満足したのか、微かに笑みを浮かべて、
「それじゃ、貴女の名前は?」
「宇佐見蓮子です」
すかさずメリーも。
「マエリベリー・ハーンです」
「──良い名前ね」
苺教授がそう言って、赤いマントを翻し、海兵服を着た少女を従えて去っていった。
「なんだったのかしら」
「さあ……」
◆ ◆ ◆
「メリー来ないなぁ」
次の日の講義に、メリーは来なかった。
春という事もあり、急激な温度の上昇に体を壊したのかもしれない。
ともあれ、いつも二人で受けていた講義も、蓮子一人だけだと寂しく感じてしまう。
比較物理学の講義になると、赤いボレロ着込んだ苺教授が堂々とやってきた。
気のせいだろうか、岡崎夢美の顔が少しだけ険しいような感じがした。
「明日から比較物理学の講義は他の教授がやることになったの」
開口一番、苺教授は生徒に言い放った。
そして、嬉々とした口調で苺教授は続けた。
「まあ一定期間だけなんだけどね、その間、私はこことは違う世界に研究しに行ってくるわ」
その言葉に、どよめきが起こる。
顔立ちも良く、女性として美しい方に分類される彼女が、電波のような事を言ったのだ。困惑するのも仕方ない。
そんなどよめきを異に介さずに、いつもどおりの講義が始まった。
蓮子はただ、そんな岡崎夢美を眺めることしか出来なかった。
蓮子はまだ苺教授の言った事が理解出来ていなかった。
別の世界とはこの世界とは違う、もう一つの世界、つまりメリーが言っていた夢の世界に繋がるのではないか、と。
しかしそう簡単に"彼処"に行けはしないだろう。それこそ、夢の世界なのだから。
いや苺教授が指す世界が夢の世界では無くても、彼女がいかにとんでもないことをしようとしているのか分かる。
魔法がある絵本の世界に行ってくる、と同レベルの発言であり、どんなに科学の力を集めても難しいのではないか。蓮子自身、そうとしか思えないし、この講堂にいる生徒は皆そう思っているだろう。
蓮子はおもむろにノートに「教授が別世界に」と書き込んだ。
彼女なら、天才の彼女なら、もしかしたらやり遂げてしまうのではないかという思いが、離れられなかった。
やり遂げたら、どうするのだろう。
ふとそんな疑問が浮かんだ。魔力という存在を証明したら、彼女は一体何を求め始めようとするのか。
彼女自身も、きっとそんなことを考えてはいないだろう。
私達だってそうだ。
メリーの云う、夢の世界に行けたとしたら、私達は何をする?
その世界が一方通行の道だったら?
……きっと、考えてはいけないことなのかもしれない。
けど実際にそうなったとしたら、私は、きっと。
きっと──?
◆ ◆ ◆
程なくして、90分の講義が終わった。
苺教授が満足気に講堂を見渡して、堂々と去っていった。
私は、はっとして机に広げていたノートや筆記用具をバッグにしまい込んで、急いで苺教授の後を追った。
◆ ◆ ◆
講堂から出た、長い廊下に苺教授こと、岡崎夢美が赤いマントをはためかせながら歩いていた。
廊下には誰もおらず、開け放たれた窓から、心地よい風と微かに人工の桜の花びらが降り注いでいた。
「教授」
走って追いかけていた私は、息を整えてから話し掛けた。
岡崎夢美が、さらりと後ろを振り向く。
そして話し掛けられた対象を確認すると、口元に笑みが浮かんだ。
「ひょっとして」
蓮子と夢美の距離はざっと、五メートル程度。
けどそれ以上相手に近づいたら、こちら側に戻ってこられないだろう。
「これからやろうとしてる事に、興味をもったのかしら?」
岡崎夢美は、蓮子に向かって一歩進んだ。
やろうとしてる事。
蓮子は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
心音が聞こえてきて煩い。
凛とした夢美の声は蓮子の意志を揺るがし、そしてまた、試しているようにも聞こえた。
「それは、どういう」
もしかしたら、初めて彼女と対話をしたのかもしれない。
今の岡崎夢美は本来の教授としてではなく、興味を持った一個人として、蓮子に話しかけているように見えた。
「そのまんまの意味よ、私に付いてくる事。付いてくれば、もしかしたら貴女が求めようとしているものが、手に入るのかもしれないわよ?……そんなものが無くても、天然モノの世界なのだから、持ち帰れば富を得ることが出来るわ」
手を広げて、夢美は蓮子を見つめる。その深い瞳の先は、果たして本当に私を見ているのか、
いや違う、瞳の先には違う世界が広がっているのだろう。自身が求めようとする答が待つ場所へ。
「私は……、私一人で行く訳にはいきません」
そして夢美はそう言われる事に、もしかしたら分かっていたのかもしれない。
「そう、残念ね」
きっと、その先の事も──。
そう言って、少し俯いて、
「貴女が求めようとするものは、輪郭がはっきりしてるのかしら」
呟きにもとれるような、小さな声で、夢美は言った。
蓮子は辛うじてそれを聞き取れたが、その言葉の意味をいまいち理解出来ずに、まるで時が止まったかのように、蓮子と夢美がいる廊下が静寂に包まれた。
少しすれば生徒達の賑やかな声で騒がしくなるだろう、けどその時には既に私達はいなくなっているだろう。
静かに、まるで、幻想みたいに。
「私は世界を渡って、魔力という存在の輪郭を形作るの」
徐々に、ゆっくりと、夢美は顔をあげながら、力強い声で続ける。
「科学の天才と言われようが、魔法への道は閉ざされていた。それは大衆が感じている"有り得ない"という先入観、それを覆すために。
……ねえ、知ってるかしら。言葉の力と揶揄される言霊に対して、想いの力も存在するのよ。
それは科学的、というよりはオカルト的な話だけれども、もしそうだとするなら」
そこで一度、口をつぐむ。
蓮子は彼女の言いたいことが分かったような気がした。
……やめて、とは言えなかった。
「大衆に植え付けられた不可能という精神、それがこの世界で魔法という力が失われた原因の一つ。そして私は、魔力の存在を証明し、魔法は可能なのだと、扱えるのだと、知らしめるのよ」
魔法が使えたら、どんなに素敵だろうか。
魔法が使えたら、どんな事でも出来そうだ。
けど、けれど、蓮子はそんな夢美が哀れに見えて仕方がなかった。
これまでにどれだけの努力をしてきたのか、嫌でも理解出来る。けどその間にも、科学という人工の神秘は衰退を知らずに伸び続けているのだ。
それこそ、魔法が陳腐のように見える程に。
それを蓮子は言わなかった。違う、言えなかった。
彼女が求めようとする幻想と現実には大きな壁が存在している。それを壊し、共存するなんて事が、果たして出来るのだろうか。
「私が人工魔法と称したのは、せめてものの対抗だった」
人工魔法、少しだけ聞いたことがある。
なんでも銃から光線や、光の弾を出すことが出来るらしい。しかしそれは、魔法ではなく、科学の力として扱われた。
五世紀先を進む彼女は、魔法ではなく科学の力と称された魔法を使っている。
それが逆に、この世界では魔法が存在しないという現実をより一層際立たせた。
蓮子は自然と落ち着いてきた。
心音も煩くないし、今では目の前にいる夢美を真っ直ぐに見ることが出来た。
「オカルトにも手をつけたわ。実験はしてないけど、幽霊という存在が在るとするならば、それを一ヶ所に集める事も出来る筈」
並の人間が、それを可能にするのは努力の賜物でしかないのだろう。
普通は出来ない、そんな事が頭を過った。ならば、彼女は普通ではないのだろうか、いやそうじゃない。並大抵の努力では出来ないようなものをやってのけた、それこそが彼女が天才と言われる所以なのかもしれない。
「それなのに魔法という存在は否定され、そして否定されたままこの世界からひっそりと消えてしまうのよ」
その言葉に、蓮子は少し前に遭遇したとある神社について思い出した。
そう、あの神社のように、人々の記憶から消えていき、そしてこの世界から音もなく、ひっそりと消えていくのだろう。
私達が今こうしてるうちに、少しずつ世間に飲み込まれ、そして失っていく。
それがとても怖くて、そして寂しくも感じた。
そして夢美は自身の赤い髪を弄って、
「話が逸れちゃったわね、ごめんなさい」
と、申し訳なさそうに言った。
「で、話を戻すわ。貴女の求めるものに輪郭はあるのかしら」
その問いかけに、蓮子は脳裏にパートナーであるメリーの姿が思い浮かんだ。
ああそうだ、と蓮子は一人納得して、そして理解する。
夢美の言葉を借りるならば、メリーこそが、私の求めるものであって、それを手にした私は、それ以外に何も要らないのだった。
だから、私はきっと、夢美の誘いを断った。
「あります。私の側にいてくれますから」
こんな千載一遇の機会に、メリーが休んだから教授と行けなかったじゃない!なんて事は何故か思わなかった。
今のこの選択が、自然であり、大袈裟に言えば運命なのだろう。
「それは」
だから、私は胸を張って堂々と言えるのだ。
私はメリーがいることが満足であり、そして──
「今も側にいるのかしら?」
えっ?
「在るように見えて、本当はあやふやなのかもしれない。いつ消えても、おかしくないのよ」
夢美の言葉が体の奥深くに染み込んでいく。
嫌悪感?、いや、それすら感じない。分からない、目の前にいるこの人間が言っていることが。
「それは……、今日は講義を休んだからで──」
しかし、思い当たる節があるのも事実だった。
あの夕日が照らしたあの時に、メリーに夢の世界について聞かれた時に、
蓮子は少しだけ、胸騒ぎがしていた。
もしかしたら、メリーが消えてしまうんじゃないかって。
「…………」
それは数秒の事だったと思う。
夢美が探るような目付きで見たかと思うと、はぁ、とため息をついて、そして笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、少し意地悪しちゃったわ」
腑に落ちない。
それでは、メリーは消えてもしまうなんていう物言いじゃないか、
そもそも、なんでそんなことを──
「さて」
そんな事を考えてる時に、夢美はまるで先程の話が無かったかのように、明るい声で、
「私は行くわ」
なんて事を、言うのであった。
夢美が、教授が背を向ける。
「あ──」
ここで私は何か言わなければならないような気がした。
それは、何故だろうか。私でさえ分からない。
ただ、今何か言っておかないと、後悔するような気がした。
一歩、一歩、
岡崎夢美は、あちら側へと歩んでいく。
「あの──」
一歩、一歩、
蓮子と夢美の距離は段々離れていく。
それと同時に、生徒達の喧騒が徐々に聞こえてきた。
まるで、氷が溶けるかのように、蓮子と夢美の世界が崩れ去るかのように。
「教授──!」
蓮子は"苺教授"に向かって叫んだ。
自分でもこんなに大きな声が出せるとは思わず、内心驚いた。
「どうしたの」
すっ、と半身だけこちらに向いて、夢美は"生徒"を見やる。
赤い髪がさらりと揺れる。春の風が二人の間を駆け抜けた。
「帰ってくるの、待ってます」
貴女にはまだ、聞いてみたいことがあるのだから。
「ありがと。土産話、期待してて頂戴」
くすり、と笑って苺教授は蓮子の元から去っていった。
こつ、こつ、と彼女の靴の音がやけに印象的で。
彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、蓮子はその場に立ち尽くしていた。
◆ ◆ ◆
その日の夜はずっと夜空を眺めていた。
夜でしか意味を為さないこの眼で、空を見上げる。星が見えなくなる変わりに、月へと旅行に行くツアーの灯りが夜空を彩っていた。
いつからだろう。
当たり前だったものが、いつの間にかすり替えられていたのは。
いつからだろう。
いつの間にか忘れて、消え去ってしまったのは。
夜空に手を伸ばして、ため息を一つついた。
微かに見えた星から、時間を導きだす。
午後十時三十三分、それでも街は眠らない。
耳を凝らすと、薄い壁の向こうから、花見をしているのだろうか、静かなこの部屋にも花見の喧騒が聞こえてきた。
この窓から見える風景も、きっと、変わっていくのだろう。
そしてやがては、ホログラムとなり現実はやがて消え去っていくのかもしれない。
ぎゅっ、と拳を握る。
これからどんな世界へと変わっていくのか、今の私には考えられなかった。
岡崎夢美なら、教授なら、
この世界の行く末を見通せたのだろうか。
「なーに考えてんだか……」
らしくない、
そう思って蓮子は目蓋を下ろした。
◆ ◆ ◆
夢を見た。
自由に空を飛ぶ夢を。
夢を見た。
メリーの手を握って大空へ飛んだ夢を。
夢の中で頬をつねって、そしたら痛みを感じて。
これは夢じゃない!と興奮したところで目が醒めてしまった。
──。
時計のアラームが耳障りで、寝ぼけ眼でゆらりと時計を見やると、既に一時限目の講義が始まっている時間であった。
そして数秒後経って、漸く蓮子は寝坊したのだと気づいた。
それにしても不思議な夢だった。
まるで子供の時に思い描いたような、非現実的な夢が実現したかのようだった。
回想していくも、頭が覚醒してきたせいか徐々に夢の内容が思い出せなくなり、はあ、と溜息をついて大学へ行く支度をし始めた。
夢とは物語上に続いていくものでは無いらしい。そんな話を聞いたことがある。
なんでも、夢の中で見るビジョンを一つ一つを追って説明していくと必ず躓くのだそうだ。
人間が順々に説明していくという事自体に、無理があるのだという。
それは自分の頭に対しても言えることで、「さっきの夢はなんだったんだろうか」と回想した時点で全てを思い出せないのだそうだ。
そういうこともあってか蓮子は、少しでも覚えておくために、夢の内容を日記に記そうかと思ったがやめておいた。
なんでも夢日記を付けると、現実と夢が区別出来なくなるそうだ。ホラー関係の情報サイトでそんな事を聞いたのだった。
もしやメリーやってるのかしら。と同時に思ったが、メリーがそんな面倒な事をする訳がない。
していたとしても、彼女は云わば夢の世界へと行けるのだ。日記をわざわざ付ける必要もないだろう。
そこで蓮子は少し考える。
夢の世界ならば、私が見ていた夢での光景も。夢の世界では現実となるのではないかと。
もしそうだとしたらなかなかのユーモラスな世界だ。
そんな世界を思い浮かべて苦笑しながらも、髪を整え、バッグに必要なものを入れて、
そして最後にお気に入りの帽子を被って、
「それじゃ行ってきます」
蓮子は家を後にした。
「───」
家を出て早々、蓮子は春が到来したことに感動した。
今までの肌寒さとうって変わって、日射しが暖かく、一面に青い絵の具を塗ったかのように、空は青で埋め尽くされていた。
遅刻した時の通学は、普段の"いつも"とは違って、理由は無いがわくわくするのであった。
それはいつもと違う、日常から非日常へと移るものであり、そんな非日常を期待している蓮子は心なしか意気揚々としていた。
そんな時に見える街の風景もいつもと違って見えて。街全体が春の訪れに喜ぶかのように、燦々と輝いていて、
それはただのガラスの反射でしかないのだが、そんなこともお構いもせずに、蓮子は大学へと足を運んだ。
◆ ◆ ◆
「遅いわ」
開口一番、メリーにぴしゃりと言われた。
なんでも一時限目は比較物理学の講義だったらしく、いつもの苺教授から知らない教授が教壇に立ったのだから驚いたという。
「それで、彼女は?」
こっそりとメリーの隣に座って、
「行ったよ」
行ったよ。
そんな蓮子の言葉に若干の陰りが射した。
事実、岡崎夢美は行った。五世紀先の科学力を持つ天才は蓮子達とは違う世界へと渡った。
「そう」
メリーは静かに、蓮子の答えに呼応するかのように声のトーンを落として言った。
◆ ◆ ◆
そして二人は何気ない日常へと溶け込んでいく。
教授が言ったことを、投影されたホログラムの文字を、さっさと書き写していく。
「あ、そうだ」
前方でただ本を読み上げていく教授を見ながら、蓮子は思い出したようにメリーに訊いた。
「帰りにカフェ行かない?」
苺教授とのやりとりで、とある雨の日に見付けた神社の事を思い出したのだ。
今日の夜は久々に秘封倶楽部の活動をしよう。
蓮子はぐっと拳をにぎる。
場所はそう、あの神社だ。
ついでに一時限目のノートも借りておこう。そうしよう。
「そういえば、メリーは昨日どうしたの?」
難しい計算式を書き写していく。大学の数学は教師でさえ唸るというが、秘封倶楽部の二人はそれを難なく解いていく。
「勘で解いてみた」という蓮子と、「それくらい理解出来るわ」というメリー。
そんな彼女達だから、大学の講義とは一種の待ち合わせ場所でもあった。
「昨日はなんだか頭が痛くてね、気分も悪かったから」
なるほどと頷いて、蓮子はおもむろに、窓から見える春の景色を眺めた。
春は始まりの季節だ。
暦上、1月が始まりなんじゃないかと思ったが、もしかしたら、冬は初めの季節なのではないかと、くだらない事を考えた。
そしてそんな野暮な考えを打ち消し、今日は久しぶりに喫茶店で大きなパフェをメリーと一緒に食べようかと画策するのであった。
「メリーは苺好き?」
「嫌いではないわ」
「私も」
「でも教授は苺の美味しさについて二コマも使って語っていたわ」
「うーん、そう言われるとなぁ。試しに苺パフェでも食べてみようかしら」
「んじゃ私は上にプリン乗っかってるのを頼もうかな」
「ってメリーも苺パフェにしなさいよ」
「蓮子が前にプリンを余計に食べたからプリン乗っかってるやつが食べたいの」
そうこう言ってるうちに大学の講義は終わりを告げ、講義室の窓からは茜色に染まった空でいっぱいだった。
「日が長くなったわね」
「二ヶ月後はまだ青いよ、きっと」
蓮子とメリーの二人が大学を出てとある喫茶店に着いたときには、既に日は沈み、新年度だからだろうか、辺りは若者で賑わっていた。
「うーん……」
「メリー、どうしたの?」
「なんだか頭痛いわ……。ちょっと歩きすぎたかも」
「う……」
「蓮子が電車代をけちるから……」
「そ、それは、定期が切れてたの忘れてて」
メリーは頭をさすって、
「これは奢るしかないわね、うん」
ひきつった笑顔で、得意気にそう言った。
◆ ◆ ◆
「お待ちしました。特大イチゴスペシャルと特大プリンアラモードでございます」
赤髪をしたメイド風のロボットが、機械とは思えぬような滑らかな動きで、蓮子とメリーの前に大きなパフェをそっと置いた。
蓮子の前には苺が沢山乗った大きなパフェで、メリーの前にはクリームによるデコレーションが鮮やかな大きなプリン。
この二つとも蓮子の奢りである。しかも特大。
「思ったより」
「うん」
「大きいわね……」
「まあ蓮子の奢りだし」
「むう」
財布にいくら入れてきたっけと心の片隅で思いながら、スプーンでパフェを崩していく。
まるで砂のお城にように出来たそれをスプーンで崩していく様は、なんだか楽しくて、
そしてそれと同時に完全なものを壊していく哀しさ── は大げさだけども、なんだか勿体無い気もするのであった。
そんなことを思ってしまうのは、やはり蓮子自身がパフェを奢る立場だからだろうか。
しかし、それでも、数秒後にはそんなことを厭わずにパフェを崩していく私がいるのだけれども。
苺とクリームが混ざった箇所をスプーンで掬って、口に入れる。
舌が蕩ける、とは上手い表現だと思う。
実際、口に入れて甘美な甘味が広がったと同時に、舌の上で溶けたかのように消えていったのだから。
メリーがそんな蓮子の様子を見つめる。
きっと苺パフェの美味しさがどんなものか、蓮子のコメントを待っているのだろう。
「ありだね、これ」
「それじゃ一口」
「あっ」
すっ、とメリーのスプーンが苺の城をそっと崩していく。
それでも微動だにしないこの城は、やはり特大のサイズだからだろうか。
「ああ、これはありだわ」
「でしょ」
何がありなのかきっとこの二人でも説明出来ないだろう。
しかし、この二人をありと言わしめる何かがあるのは確かだった。
「なんとなくあの教授が苺にはまるのは理解でき……。いややっぱり出来ないや」
「同感だわ」
あれ、
不意に蓮子はこの光景に既視感を覚えた。
確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない。
「そうだ、今日遅刻したからノート見せてもらっていいかな。確か、メリーと同じ講義だったよね?」
「うん、いいわよ。えーっと、あったあった。はい、私のノート」
ああそうだ、こんな会話をしたことがある。
特大のパフェを頼んで、そして。そして。
そして……。なんだっけ?
「メリーのノート綺麗だねえ。私とは大違い」
「後で復習するときの事も考えてね、読めない字があったら教えて」
でも、その既視観は果たして現実で起こったものだろうか。
夢という可能性もあるのだ。記憶としての光景を忘れているだけで、感覚としては覚えてるような。
そんな可能性も捨てきれない。寧ろ、濃厚なのかもしれない。
「時間あるし、帰ったらじっくり見てみるよ」
「明日は遅刻しないようにね」
ここ最近、夢という曖昧なものに対してよく考えるようになったせいか、
もしかしたらというifに、夢がくっ付いてきている。
思考の中に、新しい選択肢が増えて客観的に見たらいいのかもしれないが。
蓮子はそんななか、
夢に食われる。
そんなワードを、何故か思い浮かんだ。
その思考すら、メリーとの会話と苺パフェの爽やかな甘味で消し去られていく。
そして、それと同時に、この既視感について考える事が煩わしくなる。
「それでさ──」
その後、蓮子メリーの二人はパフェを食べながら他愛もない話を続けた。
食べきれそうになかった特大のパフェは、思いの外二人の胃袋に収まり、「大したこと無かったわね」との評価が下った。
勿論、蓮子の奢りである。
そして席を立とうかというその時に、蓮子はやっと話せるようなそんな雰囲気を醸し出しながら、メリーに告げた。
「今日はさ、久しぶりに秘封倶楽部の活動をしようかなって」
「宛はあるのかしら?」
「ええ、この前私が事前に出向いてみたわ」
「それ本当に大丈夫なのかしら……」
「でもまあ、行ってみる価値はある───いや、ないかもしれないけど、他に行く宛無いし、行ってみない?」
これから、秘封倶楽部の活動が始まる。
「神社に、行くわよ」
少しの違和感を感じながら、宇佐見蓮子は伝票を持って席を立った。
◆ ◆ ◆
「本当にこっちで合ってるのかしら」
メリーが不安げな表情を浮かべながら蓮子に訊く。
「大丈夫、大丈夫」
蓮子が初めて神社へやってきた時、帰る間際に雨が上がったのは幸運の出来事だった。
晴れていれば、蓮子の目によって、現在の位置を導き出すことが出来るのだった。
そのお陰で蓮子とメリーは目的地へ迷わずに進むことが出来た。
「電車代けちって、しかもこんなに歩くなんて……。これは奢りね。プリン一個」
そんなメリーの疲れた声に「仕方ないなぁ」と返して、蓮子はずっと歩き続けた足を止めた。
二人の前には、神社へ続く長い石階段が続いていた。
夜のせいか、暗闇で階段の果てが見えなかった。
「いかにも、って感じだね」
「なんだか怖いわね」
そんなやりとりをして、神社に続く長い石階段へ足を踏み入れた。
前に一人でここにやってきた時は、好奇心で長く感じなかったが、二回目のこの地は、一回目よりも何故か不気味な印象を蓮子に与えた。
それはメリーも同じだったらしく、階段道だというのに、ずっと蓮子の服の端を掴んでいるのだった。
時刻は既に午後九時を過ぎていた。
夜の闇は次第に濃くなりつつあった。
「あ、見えた見えた」
二人は石階段をやっとのことで登りきった。
そんな彼女達を待ちわびていたのは、ひどく寂れきった小さな神社だった。
人のいる気配もなく、この時代から取り残されていく可哀想な形骸が。
「そういえばここって何て言う神社かしら」
メリーのそんな疑問に蓮子は辺りを見渡す。
神社といえど表札はあるだろう。そこに名前が書いてあるはずだ。
蓮子の予想通りに、その表札はすぐに見つかった。
この神社に人が誰も来なくなって、かなりの歳月が経っていたのか、その表札は状態が悪く、文字が掠れて読みづらかった。
「はく……──。ああ……博麗神社ね」
博麗神社。それがこの神社の名前。
頭の中で一度だけその名前を繰り返して、そして神社の境内へと足を踏み入れる。
神社の境内は、先ほどみた外観となんら変わりなく、石畳は剥がれ、樹木は枯れ、神社というよりは廃墟という言葉が連想された。
そんななか、二人は「折角来たのだからお賽銭ぐらい入れていこう」ということで、神社の賽銭箱まで歩き進めた。
博麗神社の賽銭箱は神社の外観同様、いつ壊れてもおかしくない程に。寂れていた。
本来は良質な木材で作られていたのかもしれない。だからこそ、この賽銭箱は今でも原型を留めているのかもしれない。
それはメリーも思ったらしく、言葉にこそ出していなかったが、感嘆しているように見えた。
そもそもこういった賽銭箱等の類は、お金になるため泥棒等によって賽銭箱自体が盗まれるなんて事が多々あり、
盗まれずにここにあるということは、これほどまでに寂れきった神社だからこそなのかもしれない。
「とりあえず百円玉でも」
そう言って、二人はそれぞれ百円玉を投げ入った。
ちゃりん、と透き通った音を聞いて、蓮子は手を合わせた。
目を閉じて、お願い事を頭の中で何度も唱える。
これは調べて分かったことなのだが、お願い事をすればその神社にいる狐が叶えてくれるそうだ。
ただ、その事について後日感謝せねば願い事以上の不幸に襲われるらしい。
この神社にも、狐、いや、神様はいるのだろか。
いるとしたらどんな神様なのか。
そしてこの有様を見て、どう思うだろうか。
そんな興味が少しだけ沸いた。
「あれ」
目を開けると隣にいる筈のメリーがいなかった。
目を閉じてる間、なんの気配もしなかった。気配を消してメリーはどこかへいったのだろうか。
あまりに唐突な出来事に、蓮子は混乱した。
「メリー」
まるで隣に話しかけるように、蓮子は呼びかける。
蓮子の頭が、何も考えられなくなり、心臓が高鳴る。
「メリー?」
賽銭箱から離れて、見渡しのいい場所で辺りを見渡す。
彼女のちょっとした悪戯だったら、いいのにと。
いや、寧ろ、そうであって欲しいと思った。
「メリー?ねぇメリーったら!」
力強く、叫ぶ。
その声が反響し合い、蓮子の耳に届いた。
『夢』というワードを思い出して、不安になる。
彼女は夢の世界に消えたのか、或いは飲み込まれたのか。
そんな、一番可能性の低いようなものが、最有力と思ってしまう。
「ここに連れてきたのは悪かったからさ!メリーどこにいるの……!」
彼女が、蓮子に対して愛想を尽かしたかのように。
そんな哀しい考えすら浮かんできた。
境内を走り回り、彼女を探しても見つからなかった。
そして幾ばくかした後、蓮子はついに足を止めた。
見つからない。それこそ神隠しのように。
後ろを振り向いて神社を見やる。最初こそ寂しげに感じた神社だが、今となっては何かあるようなそんな気がしてならなかった。
少なくとも蓮子の目には、この博麗神社は何か違うものの様に見えた。
それがなんなのか蓮子には分からないけども。ただ、一つだけ言えるのは。
蓮子とメリーではなく、メリーだけが消えたという事。
蓮子ではなく、蓮子とメリーの二人ではなく。
その事実に、蓮子は拳を握って夜空を見上げた。
夜の空は蓮子の気持ちなど厭わず、綺麗な満月と数多の星々が輝いていた。
星空を見て、既に22時なのだと知った。もうそんな時間なのか、と思って、半ば諦めた状態で、博麗神社を後にしようとしたその時だった。
「これは」
境内の入り口、大きな鳥居の下に何の装飾もされていない黒い本が落ちていた。
二人でここを通ったときには気づかなかったのだろうか。いや違う。あの時は落ちていなかった。
ならこれは一体なんなのだろうか。
蓮子は黒い本を手に取り、頭を大きく振って、もう一度だけ博麗神社を見た。
メリーが感じた、「怖い」はどういう意味であったのか。
そんな事を考えて、途端、蓮子は底知れぬ恐怖に満たされた。
何が起こったのか、それすら分からない事に、蓮子はパニックに陥った。
秘封倶楽部として色んなところを巡り巡った蓮子であったが、こんな事は初めてだった。
そして蓮子は走った。神社から遠ざかった。
これは夢なのだと、自身に言い聞かせて。
片手には黒い本。その腕には腕時計。
その時計の針は21時35分10秒で止まっていた。
E n d . . .
あとがき-
お久しぶりです。
そんな訳で、あのお話を埋める秘封倶楽部のお話でした。蓮子メインですけど。
岡崎夢美のキャラが原作と微妙に違うのは気のせいでしょうか。いやでもカリスマありますよね彼女。
というわけで二次設定というのが色濃く出来た話だったのではないでしょうか。
さてこのお話で、やっと。といった感じでしょうか。
これから先、短編集という根幹の話が続くのではないかと。
彼女達の物語は、まだ終わりません。けど次に出てくるのは先の話。
10/06/26 記
|